古謝の散歩(4) ガンヤー、アガリヌシーサー、石ビラ

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    古謝集落で撮った写真を数枚紹介して、古謝の散歩はおしまいです。

    (1)龕屋(ガンヤー)



    沖縄で火葬が始まったのは戦後のこと。それまでは風葬、後に土葬が行われていて、柩を龕(御輿)に入れて運びました。その龕を収納しておく倉庫が龕屋です。

    数年前、古い龕屋と龕が台風で破壊されてしまい、先月、立て直したばかりだそうです。昔からの風習を記憶するためのモニュメントの位置付けだろうと思います。古謝集落を跨いでいる大高架橋の真下にあります。


    (2)アガリヌシーサー



    かつては男前だったのでしょうが、寄る年波には勝てず、表情も動作の意味もよくわかりません。別名が「津堅ドゥーゲーシ」。ドゥーは海峡とか灘を意味するようなので、津堅島周辺の海に対するケーシをしてるってことでしょう。その海に何があるのか(いるのか)は不明で、本人も忘れてるんじゃないでしょうか。

    津堅島の名前の由来に関係するのではないかと調べてみたところ、次のような話がありました。

    中城の夫婦が沖に見える島へ渡ろうとしたが、島の周辺は波が高く容易にはたどり着けなかった。何度も試みた末、遂に島に上陸した夫婦は「チキタルチケン(着いたぞ)!!」と声をあげ、以降、この島はチキンジマとなった。

    この話で、シーサーが意識するとすれば、波が高い海域でしょうね。そこから災いがもたらされると考え、ケーシをしたと。てことにしておくか(笑)


    (3)石ビラ



    古謝集落から津嘉山原へ向かう古道があり、石畳が施してあると聞いていたので楽しみにしていたら・・・。

    まあ、いいんじゃないですか。このほうが歩きやすいし。


    (4)古謝バス停



    古謝に停まるのは東陽バスだけ。系統31泡瀬西線(那覇−泡瀬)と、系統60泡瀬イオンモールライカム線(ライカム−泡瀬)。


    (5)コザバス停



    先日、写真を撮り忘れたモノがあったので、古謝からの帰りにコザ十字路に寄りました。

    それは、松風(マチカジ)のベンチ。



    松風は沖縄の焼き菓子で、結納などのお祝い事に欠かせない縁起物です。その松風をベンチの陽よけにしたんですね。そこにオッさんが座ってたのでは、まったく絵になりませんが、この時座ってたのは女の子。この子にはきっといいことがあるでしょう(笑)

    (終わり)


    古謝の散歩(3) 御嶽の森

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      古謝集落のイーウガン(上御嶽)。一目見ただけで、これはもう御嶽です。



      ナイチでは神社を取り囲む森を「鎮守の森」と呼びますね。鎮守は村を守るという意味で、その森には神が降りて来る。沖縄の御嶽もそこは同じです。

      森の中の祠。母親の胎内にいるかのような感覚と、何者かに上のほうから見られている感覚。



      いきなりスピリチュアルに目覚めたかと言えば、そんなことはありません。しかし、この空間はいいわ(笑)


      こちらは、シチャウガン(下御嶽)。



      森と林の違いは面積や樹木の数ではありません。森を「広くて樹木が多い」と定義したら「原生林」を説明できませんからね。途中を省略して結論だけを言えば、神が降りて来るのが森で、降りて来ないのが林。だから、ここは森(笑)

      下御嶽の拝所へ上る石段。




      次はビジュル。霊石信仰の拝所です。



      アコウの大木の根が、宝珠が乗った祠をしっかりグリップしていました。




      お盆が近いことだし、古謝の御嶽をまわって神聖な気持ちになったかと言えば、やや違って懐かしい気持ち。かつて、下御嶽の近くには古謝初等学校があって、そこの生徒達が御嶽の森を背景に卒業記念の集合写真を撮ってたんですよ(載せないけど)。

      島を離れて思い浮かべる故郷の風景としては最高じゃないでしょうか。


      ナイチの鎮守の森は、村人が定期的に森の手入れをし、手入れが行き届いた森ほど神が降りて来ると信じられていました。間伐した材木は燃料として使い、神社の修理も自前の材木で事足りたようです。

      鳥や虫が集まり、森が保水した雨水は養分を含んで少しずつ川に流れ出し、その水を田畑に使い、と、まあいいことばかりだったわけです。

      ところが最近は、「ちょっと道路をひろげましょうね」と森を削り、神社の修理費を稼ぐために「ここは木を抜いて駐車場にしましょうね」などと、経済合理性が優先される風潮にあります。沖縄の御嶽も状況は同じでしょう。

      今の小学生も御嶽の前で卒業写真を撮ればどうでしょう。進学や就職で島を離れても、やがて島に帰って来た時、御嶽を粗末にできない大人になっていると思いますよ。

      (続く)


      古謝の散歩(2) 古謝の井戸

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        シーサーの坂道を下りた所にある井戸が美栄泉(ミーガー)



        戦前、古謝集落はサトウキビの増産に励み、模範集落の指定を受けました。沖縄1935では、朝夕の暗い時間帯に松明の灯で行う農作業の様子が紹介されていて、美栄泉はその時に大活躍した井戸です。

        ところが、シーサーの坂道を通した時に、石やら土砂やらを井戸の脇に投げ込んだようで、その圧力で泉の柱が折れてしまいました。も〜、何してんのよ。


        こちらは古謝公民館。9月16日(土)はアシビナーで納涼祭だそうです。



        公民館から一本西のスージがおそらく古謝のナカミチ。その突き当たり、つまり集落で一番の場所に古謝之殿(トゥン)があります。





        殿の前の広場が、納涼祭が行われるアシビナー。




        古謝之殿から細い道を登った所に村井戸がありました。ウーチューガー。



        石組みが新しく、最近、組み直したようです。その割に、あまりかまってもらえてない雰囲気がありますね。

        まあ、人様のオタクに勝手に入り込んで、柱が折れとるだの、手をかけてないだの言うてるお前は誰やねんって話です。いや、分かっていますてば。

        (続く)


        古謝の散歩(1) 津嘉山森からの眺め

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          コザ十字路の南東角から胡屋方面を撮った、1970年頃の写真がありました。コザ市と美里村の合併前、復帰前の頃です。



          古い写真を見て良い気持ちになる理由の一つは、障害物が少なく、遠くまで見渡せることにあります。

          コザ十字路から安慶田を抜け、右にカーブしながら住吉の坂を登り切ると胡屋に出ます。この写真を見ていると、坂道の風景や坂道を登りきった後の胡屋の街並みまで、思い浮かべることができます。今、同じアングルで写真を撮ることはできても、写るのは十字路周辺のビルばかり。情報量が少ないから風景の広がりが得られません。

          例えば、那覇で生まれ育って東京や大阪に進学した大学生が故郷を想う時、脳裏にどんな風景を思い浮かべてるのかなと、余計な心配をしました。


          コザ十字路から南に向かうと、コザ高校のあたりから下り坂となり、泡瀬海岸に至ります。つまり、コザ十字路付近は胡屋から一段下がり、海岸から一段上がった、中城湾を望むテラスのような場所です。

          そのテラスの東端にある岩山が津嘉山森(チカザンムイ)。津嘉山森から斜面を下り海岸に至るまでの範囲が古謝集落です。



          頂上は岩が露出していて、あそこに座れば素晴らしい眺望が得られそうです。雑木をかき分けて登れないことは無いでしょうが、私にはそんな根性は無いので(笑)、そこら辺の道路から中城湾を眺めました。




          次の写真は沖縄1935の古謝集落。



          この古い写真と同じアングルで撮りたかったのですが、実は高さも方向も違います。それでもまあまあの風景。


          古い写真の右上端。よく見れば泡瀬海中道路がチラッと写ってますね。その海中道路の古い写真がありました。



          この道路は大正時代に造られたもの。当時、与那原から泡瀬までは道路が整備されていたようですが、泡瀬から先は古謝集落の畑の畦道を歩くか、干潮時に干潟を歩くしかありませんでした。そこで、泡瀬から与勝半島の根元まで海中道路を通したのです。

          「大正時代によく造ったな」などと言うと恥をかきます。琉球王府が長虹堤を造ったのは15世紀ですからね。こんなの楽勝なのですよ。

          20130408125946_0.jpg

          さて、中城湾を眺めたので、古謝集落へ坂道を下りましょう。途中にシーサーがいるはずです。その標識を簡単に見つけたものの、シーサーの姿が見えません。



          茂みをかき分けると、いました、いました。茂みに潜む黒うさぎみたいなシーサー(笑)



          先ほどの沖縄1935の写真は、このあたりで撮影されたのではないかと、私は推測しています。当時は斜面も耕作地で見通しが効いたのですが、今は雑木林で何も見えません。

          言うまでもなく、シーサーは集落の守り神。悪霊が集落に浸入しないように、睨みを効かせることが役目です。この黒うさぎ、そうはなってませんねぇ。

          (続く)

          コザの散歩(6) 越来グスク

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            一つ前の投稿で紹介した1947年の写真を拡大しました。



            コザ十字路の北に越来、西に安慶田、南に照屋の各集落が見えます。コザ十字路付近はハル、もしくは湿地のようで民家が見えません。ハルと安慶田集落との境界を比謝川が南から北へ流れています。



            コザ十字路の北西、越来集落の南に写った長方形の黒い影が越来グスクです。米軍はその城壁を崩し、コザ十字路周辺の地盤強化に利用したのですが、その様子がコザ十字路絵巻に描かれています。ブルドーザーに乗ったマッカーサー。



            つまり、銀天街の地下には越来グスクの城壁がゴロゴロしてるってこと。世界遺産登録クラスの城壁だったはずなのに、グスク跡地にその痕跡は何もありません。

            マッカーサーのやつめ。

            何てことすんだ。と思う一方、そこに市場ができてコザが繁栄したんだから、まあいいか。と思う一方、越来グスクも見たかった(笑)


            越来グスクは即位前の尚泰久(越来王子)の居城でしたので、百十踏揚はここで生まれ育ったはずです。泰久王は1454年に39歳で即位し、踏揚は勝連の阿麻和利に嫁ぎました。そして、阿麻和利の乱が1458年。

            王府軍が勝連グスクに到着する寸前、大城賢勇は踏揚を背負い、首里へ逃げましたが、その様子も絵巻に。



            勝連を制圧した泰久王は、賢勇と踏揚に越来グスクを与えました。

            踏揚の生年が分からないので、適当に数字をあてはめれば、16歳で勝連に嫁ぎ、20歳で越来グスクで帰ってきたということ。そして、1462年に首里でクーデターが起きたため、賢勇と踏揚の(幸せな)生活はわずか4年で終わってしまいます。踏揚24歳。賢勇は踏揚を玉城に逃がした後に自害したと言われています。

            関連投稿:百十踏揚が玉城へ向かった理由(1)

            関連投稿:大城賢勇の墓(1)


            コザの散歩は一旦これでお終い。次は古謝を歩きます。


            コザの散歩(5) 沖縄戦直後のコザ

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              1947年に米軍が撮影した航空写真がありました。

              1945年の沖縄戦集結後、大規模な収容所(キャンプ・コザ)が設置された越来村は、一旦、胡差市(もしくは古謝市)に昇格しましたが、翌年の1946年には収容所の住民が解放され、再び越来村に戻りました。更にその翌年の写真です。

              関連投稿:コザ市誕生、消滅の年表(メモ)



              直線的な軍道が目に付きますね。コザ十字路と赤道交差点。高原交差点が海に近いことに驚きます。泡瀬海中道路は初耳で、楽しみが増えました。米軍泡瀬飛行場の北端が少し写っています。


              1945年4月1日、読谷に上陸した米軍は翌日には泡瀬海岸に到達し、4月3日には伊佐、普天間、荻道、久場を結ぶラインまで南下しています。幸いなことに、コザ周辺で大規模な戦闘は起きなかったということ。米軍は直ちにコザに収容所を設置し、そこに周辺住民を集めました。そして、古謝集落(写真縁取り部分)にも収容所が設置され、併せて米軍の宣撫部隊が駐留しました。

              (宣撫:占領地域などで、政府の方針を知らせるなどして、人心を安んずること)


              その時、米軍はキャンプ・コザをビッグコザ、古謝集落をスモールコザと呼び分けていたのです。さて、コザの由来を知るための私の散歩は、ここで結論に至りました。コザの由来は古謝です。

              コザの由来を、胡屋の聞き違い(あるいは読み違い)とする説と、古謝とする説とがあります。史実を曲げることはできませんが、両論併記のどちらを支持するかは各人の心証によります。またその積み重ねにより、各人の歴史観が形成されます。

              関連投稿:胡屋を読み間違えてコザになったって本当か?

              コザの名を世に知らしめたのは、1970年のコザ暴動事件と言えるでしょう。その現場が主として胡屋十字路付近であったことや、後にコザの中心がコザ十字路から胡屋十字路に移ったことなどにより、胡屋説が受け入れられたのではないでしょうか。それは、付会の説に思えます。

              (続く)

              沖縄タイムス伝統芸能選考会でグランプリ

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                C「もしも〜し」

                母「あっ、Cさん。久しぶりねぇ」

                C「おめでとう」

                母「えっ、何ね?」

                C「何ねっ!!。ヒロチカや、ヒロチカ。グランプリ」

                母「アハハ、新聞見てくれた?」

                C「前回は琉舞の最高賞で、今回は太鼓のグランプリか。よくやったなぁ」

                母「ウフフ。ヒロチカに言っとく」



                C「母ちゃんは酔っ払ってる場合とちゃうで」

                母「なっ、なんね」

                C「グランプリの母としての自覚と言うか、タタズマイがなぁ」

                母「何言ってる。ウチだってちゃんとできるさっ」

                C「息子が冷蔵庫に入れたビールを目立たん所へ移して、忘れさせて飲んだり」

                母「ギャハハ!!」

                C「5、6本ある時は後ろから抜いたり」

                母「良く知ってるさ」

                C「二つ目は適当に言うたけど、やっとんかいっ!!」

                母「まあ、たまにね」

                C「太鼓のグランプリは5年くらい前に与那覇徹が受賞しとるな」

                母「えっ、誰ね」

                C「だからそこらがなぁ。与那覇徹ってバリバリの民謡歌手で、プロの中でも演奏が上手いスーパーテクニシャンや」

                母「へ〜」



                C「ヒロチカにな。たまには農連市場に来て、良和君に会いに行けって言うてくれ」

                母「良和さんって、佐辺良和さんね?」

                C「そうやで」

                母「何言ってる。あんな雲の上の人にウチの子が何て言うのよ」

                C「『おいっ、調子はどうか?』とかよ」

                母「ばっ、馬鹿じゃないの?。佐辺さんに比べたら、ウチの子なんかチョーンよ」

                C「大丈夫。佐辺のお母さんには報告済みや」

                母「あっそうそう。三越無くなって、ウチはパレットで働いてる」

                C「ああ、そうなんや。相変わらず古波蔵から徒歩通勤か?」

                母「もちろん!!」

                C「あんな頑張る子をよく育てたな。ヒロチカは一生母ちゃんに頭が上がらんで」

                母「ウフフ、そこはね。ありがとう」

                C「じゃあ、またな」

                母「あっ、たまにはエールに顔出しなさいよ」

                C「わかった」


                コザの散歩(4) コザ琉映、中乃湯、花ぬ島、照屋政雄

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                  古くからの商店街、映画館、ユーフルヤーは沖縄のノスタルジー3点セットと言えるでしょう。

                  銀天街の最盛期に映画館があった場所です。



                  銀天街を取り囲むように5ヶ所。時計の12時の位置にあった十字路国映館から、反時計まわりにコザ沖映、コザ琉映 、十字路オリオン座、第一セントラル琉映館。

                  昨年まで営業していたコザ琉映以外は影も形もありません。そして、コザ琉映の閉館により沖縄市の映画館は絶滅してしまいました。



                  3年ほど前、コザ琉映をライブハウスやスポーツバーなどを併設した映画館としてリニューアルしようとする動きがありましたが、話は進んでないようです。


                  次にコザのユーフルヤーと言えば中乃湯。



                  コザ十字路から西に歩いて、安慶田の信号を左に入った所にあります。私が沖縄に来たころ4軒あったユーフルヤーは次々に廃業し、沖縄本島で営業しているのはここだけになりました。


                  そんな中、昔も今も頑張っているのがコザの民謡酒場。その代表格「花ぬ島」はコザ十字路から南へ歩いて最初の信号を少し過ぎた左手です。



                  観光客の私が訪ねた民謡酒場を投稿したことがあります。

                  魅惑の民謡酒場(女性編)
                  魅惑の民謡酒場(男性編)
                  魅惑の民謡酒場(おまけ)

                  何でこの中に「花ぬ島」が無いのかねぇ、と思います。神谷幸一さんと玉城一美さんはナイチの感覚で言えば橋幸夫と吉永小百合みたいなもの(例えが古くてすみません)。本来は真っ先に行かなあかんのに、当時はよく分かってなかったんだよなぁ。




                  「花ぬ島」からもう一つ先の信号(照屋)左手にダイソーがあります。ダイソーで買物をしたつもりで(買っても良い)出口を出たら、そのまま横断歩道(おうらんほろお)を渡りましょう。

                  すると、目の前にこのような看板が見えます。



                  沖縄民謡界の大御所照屋政雄さんの三線・太鼓工房兼三線教室です。

                  あっ、太鼓で思い出しましたが、一昨日、私の友人の息子が沖縄タイムスの伝統芸能選考会(太鼓部門)でグランプリを受賞しました。パチパチパチ。


                  照屋三線教室のドアにポスターが貼ってありました。演目は沖縄芝居の定番「丘の一本松」。会場はキャンプ・コザの跡地に建った沖縄市民会館です。

                  その沖縄芝居に村人Aとして出演したのがじゅん選手でした。そして、その村人Aを応援するために、わざわざナイチから駆けつけた女性がいました。

                  目的を果たした女性は津堅島に渡り、炎天下のニンジン畑を自転車で爆速。あやうく熱中症で倒れるところだったそうです。いやぁ、村人Aを応援するのも命がけです。

                  いめゆんなさん、津堅島は神谷幸一さんが生まれた島です。機会があれば「花ぬ島」で飲んで、津堅島の思い出を話してあげて下さい(笑)

                  (続く)


                  コザの散歩(3) コザ十字路絵巻(その2)

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                    コザの由来を探求する「コザの散歩」。その趣旨に鑑み(笑)、壁画の紹介は黒人街形成以降です。琉球王朝時代はまたいずれ。




                    胡屋とコザ。二つの十字路は白人街と黒人街に色分けされました。ベトナム戦争への出撃基地となった嘉手納。初めて戦場に向かう者、一時帰還して再度戦場に向かう者。米兵のメンタリティは人種によらないでしょうが、より前線に投入された黒人兵がコザで発散したエネルギーは胡屋を上回るものではなかったかと思います。

                    当時の沖縄を描いた作品(映画、書物、写真など)の多くは胡屋に関係するもので、私にはコザに関する知識がほとんどありません。だから尚更、当時のコザを体験したい気持ちになります。まあ、実際はそんな気楽なことを言える状況ではなかったでしょうけどね。




                    右手上の天国?に照屋林助さんが座っています。左手のゆるキャラは天ぷらのプーラ君だそうです。プーラ君の右にある赤いリボンのような食べ物は縁起物の松風(マチカジ)。下方の緑色はドラゴンの尻尾です。




                    ドラゴンが徐々に盛り上がります。




                    写真をプリントしたかのように描かれた人物は、銀天街で総菜屋を営む城間さん。手にした箱には揚げたてのサーターアンダギー。






                    この日、城間さんの店はお休みでした。そして、壁画が完成した時の城間さんのコメントがこちら。

                    「すごいのができた。商店街のみんなが元気だった時分にできていたらな、って少し残念。でも、ま、自分はまだまだやる気十分だけどね」

                    部外者の私がこんなことを言うのもナンですが、その通りなんだろうなと思います。


                    ちょっと壁画を離れて、銀天街の写真を2、3枚。







                    最後の写真のスペースを私は結構気に入ってます。人がいないと寂しい雰囲気ですが、数人で集まればビールが美味しく飲めそうです。手前の椅子はエビの天ぷら(笑)




                    さて、最後の壁画でドラゴンが完成しました。

                    ドラゴンが抱きかかえるようにしているのは未来の銀天街です。



                    ドラゴンの前に植えられているガジュマルの枝ぶりが良くなっていますから、10年後なのか、15年後なのか。壁画の塗料は10年が寿命だそうですから15年後では困ります。


                    最盛期の銀天街が復活することは難しいでしょう。しかし、松山に客を奪われ場末とまで言われた桜坂は、桜坂劇場を中核に文化的な大人の街として再生を果たしました。壁画を提案した人達のような知恵が求められますが、少しスタイルを変えて銀天街が再生する可能性はありそうです。

                    ここは再開発の予定が無いから、少し時間がありますね。それに引き換え農連市場は(苦笑)

                    (続く)


                    コザの散歩(2) コザ十字路絵巻(その1)

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                      一昨年、コザ十字路に完成した壁画「コザ十字路絵巻」。その全長は160mもあります。



                      国道330号線の拡張工事により、銀天街最前列の店舗が剥ぎ取られ、その奥の建物の壁面が剥き出しになりました。しかし、無茶苦茶しますねぇ。そんなことしたら、銀天街が商店街に見えなくなってしまいます。


                      ところが、そこを逆手にとったデザイナーが現れ、国道の拡張でツラが揃った壁に絵を描こうと思いついたんですよ。そのデザイナーの呼びかけに、東京の壁絵職人(ウォールアーティスト?)が応えました。

                      素晴らしい。これは素晴らしいとしか言いようがありません。

                      壁画プランは沖縄市に提案され、事業化が決まりました。デザイナーと壁絵職人の指揮の下、銀天街の若手から通りがかりの学生まで、多くの人達がこのアートプロジェクトに参画しました。


                      それではさっそく、壁画を拝見しましょう。



                      ガストの看板がオシャレです。「これはちょっと外しましょうね」などと言わないのがいいところ。

                      左手には万国津梁の鐘。

                      「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」

                      鐘に刻まれた銘文が海洋国家「レキオ・グランデ(大琉球国)」の気概を示しています。沖縄県知事ならびに県庁幹部職員は、県庁応接室の屏風の前に立ち、毎朝これを唱和いただきたい。

                      何でコザで万国津梁なのかについては、鐘の製作を命じた尚泰久王が、即位前に越来王子として越来グスクで暮らしていたことによります。まあ、ちょっとアレな気もしますが、若き日の泰久王は越来の地で、誇り高き琉球国王としての素養を醸成し、後に立派な鐘を作りましたということか?。


                      このコザ十字路絵巻は琉球王朝の時代から現在に至るコザの歴史が学べるようになっています。尚泰久王は百十踏揚のお父さんですから、160mある壁画の右半分には護佐丸や阿麻和利、踏揚を背負った大城賢勇などが登場します。

                      ある程度、沖縄の歴史を知っている人は壁画鑑賞の楽しみが倍増し、何のことやら分からない人には、歴史の勉強を促す仕掛け。一つ一つに解説はありませんから、そこは自分で調べなさいってことよね。パチパチパチ。


                      おっ、危うく次に行くところでしたが、右手には鳥に乗る飛び安里。人類で初めて空を飛んだ男です。南風原の偉人として、常々、南風原町役場が自慢してますが、どうして彼がコザに?

                      飛び安里の伝承にはいくつかあり、その一つは飛び安里が花火師であったとするもの。その花火師は越来に住み、そこから泡瀬の岩壁や南風原の高津嘉山に出向いてフライトしたんですね。あれまあ、それじゃあ南風原の偉人はウルトラマンだけになってしまいますが、どうするんだ南風原町役場。

                      (続く)


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                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
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