空中写真にみる沖縄のかたち

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    久しぶりの沖縄県立公文書館です。

     

     

    展示棟で写真展「空中写真にみる沖縄のかたち」を開催中。沖縄戦前後に米軍が撮影し、後に公文書館が収集した空中写真が展示されています。

     

     

    これまで公文書館には何度か来てますが、用事が終わればさっさと帰るので、施設内をよく知りません。私だけかもしれませんが、ここは何やら人を寄せ付けない雰囲気があるのよね。

     

     

    こちらが展示棟。

     

     

    その奥には庭がありまして、

     

     

    沖縄の井戸を模した造形物がありました。知らんかったわぁ。

     

     

    公文書館は沖縄戦等の資料を散在させず、一ヶ所にまとめて保管するための施設です。私はその意義には大いに賛同するものの、施設としてはちょっとオーバースペックではないかと。

     

    竣工年で並べてみれば、県庁(1990)、公文書館(1995)、平和の礎(1995)、知事公舎(1997)。もちろんそれぞれ必要な施設ではあるけど、簡単に言ってしまえば「立派過ぎないか」と。

     

    この頃の沖縄で、大きな施設と言っても三越とか那覇タワーとか。それが「沖縄にもこんな施設ができていいんやぁ」と、以降、県民の意識が変わった気がします。

     

    もっとも、バブルな時期でしたから、「日本中がそうだろ」と言われればその通りでございます。
     

     

    「文句があんのなら入んな」と言われては困るので、そろそろ展示室に入りましょう。

     

    特に目に付いた二枚の写真を紹介します。

     

    一枚目はこちら。

     

     

    まず目に入るのは奥武山と南北明治橋。右手の炎や煙は気がつかないフリをして、東町あたりを拡大しましょう。戦前の那覇の中心街です。

     

     

    久茂地川の河口から2本目が旭橋。すぐ手前に軽便鉄道の鉄橋が見えます。旭橋を東町に渡った道路と線路は街を斜めに横切って通堂に繋がっています。その斜めの通りの手前一帯が那覇市場。

     

    その更に手前。やはり斜めに横切る大通りが大門通り。右手から山形屋、那覇市役所、那覇郵便局などが並んでいます。

     

    この付近の詳細が過去の投稿にありますので参照下さい。

     

    戦前の那覇が模型で復元されるそうです(1)

     

     

    先ほど気付かないふりをした炎と煙に戻ります。この写真には撮影日がありませんが、明らかに昭和19年10月10日の朝です。

     

    この日、午前4回、午後1回に分けて、述べ1,400機の米軍機が沖縄を襲いました。(10・10空襲)

     

    最初の攻撃目標は各地の飛行場と港湾でした。上の写真では、西本町や西新町に煙が上がっているように見えますが、攻撃目標は那覇港と停泊中の船舶。つまり、那覇空襲が始まった瞬間を捉えた写真です。

     

    写真で見る那覇の街は一見平穏に見えますが、この時、意表をつかれた那覇市民は慌てふためき、蜂の巣をつついたような状況にあったと思います。そして、この日のうちに那覇全域が焦土と化しました。

     

     

    そして二枚目の写真。

     

    この写真は翌年7月に撮影されたようです。那覇の街は露出した地面が一面に広がるばかりで、何もありません。

     

     

    広島県人の私がこの写真に既視感があるのは、原爆投下後の広島の写真を何度も見ているからでしょう。

     

    この二枚の写真が並んでるんですから、気分は最悪でした。絶句して言葉も無いので、突然ですが、この投稿は終わりです。

     

    写真展は9月2日まで。イチャンダ。


    懐(なち)かさん戦前の首里城

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      沖縄県立博物館で開催中の写真展「懐かさん戦前の首里城」に出かけました。

       

       

      ポスターの写真は東のアザナから撮影された戦前の白銀門と奥に正殿。今の首里城では未公開ゾーンです。

       

      (故)森政三さんは戦前、戦後の首里城復元に尽力した建築家で、現在の守礼門、園比屋武御嶽は彼の指揮の元で復元されました。また、彼が保管していた円覚寺や中城御殿の詳細な平面図は、今後の復元事業に欠かせない資料となっています。

       

      森政三さんの経歴をおさらいしてみると、彼は「沖縄病」にかかっていたと思われます(笑)。この写真展は建築家として、また沖縄病患者として、彼が撮りためた写真の一部を公開したものです。

       

       

      坂本万七

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      鎌倉芳太郎

       

      木村伊兵衛

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      沖縄1935

       

      戦前の沖縄を撮った写真の多くは沖縄戦で失われ、ナイチに持ち帰られたネガは残りました。森政三さんのコレクションもその一つということになります。

       

       

      さて、写真展では戦前の首里城と中城御殿を見ることができました。いくら見ても見飽きない写真ばかりでしたが、私が思わず見入ってしまったのは中城御殿の御嶽でした。大きな岩と包み込む樹木。岩上の祠に上る階段。

       

       

      何故この写真かと言うと、何度も塀の外から眺めた中城御殿跡に、このサイズの岩があったんですよ。

       

      「いっ、行くかっ!!」

       

       

      て言うか、来た。早っ!!(笑)

       

      この岩です。

       

       

      戦前の中城御殿を見ましょう。

       

       

      敷地の右半分に建屋が並び、左半分上部には樹木が植えられています。御嶽の写真のキャプションには「敷地の北西(写真左上)にあった上之御殿(ウィーヌウドゥン)の御嶽」とあります。

       

      上之御殿は建屋の敷地よりやや高くなっていて、中城御殿の庭園があった場所です。

       

      現在の航空写真で見れば、この岩はバルーンの左。上之御殿の御嶽にほぼ間違いないでしょう。だけど、塀の外からは階段が見えないのよね。

       

       

      階段をチラッとでも見て、この岩が御嶽だと確信したい私。

       

      「しっ、敷地に入るかっ!!」(笑)

       

      敷地内には工事車両が数台いて、運転席でニイちゃんが昼寝していました。オドオドせず、堂々と入れば「あれ、関係者か?」と思われることでしょう。

       

       

      とは言え、ルールはルール。ここは、沖縄県立埋蔵物文化センターの力を借りましょう。

       

      次の写真は、埋蔵物文化センターが上空から岩を撮ったもの。階段の基礎となっていた積み石が岩に沿って並んでいます。階段と岩の三分の一ほどが沖縄戦で破壊されたようです。

       

       

      この岩は御嶽に間違いありませんでした。中城御殿の復元と共に、この御嶽が整備される日が楽しみです。

       

       

      戦前、取り壊し直前の首里城を救ったのは、人間国宝(紅型復興)の鎌倉芳太郎さんでした。尚家の信頼は絶大で、芳太郎さんは中城御殿に自由に出入りできたそうです。

       

      ある日、中城御殿を訪れたのは(故)比嘉カマトさん。中城王子の祈願を担当する高級ノロです。カメラを構える芳太郎さんとポーズをとるカマトノロ。

       

      この写真は上之御殿の御嶽近くの石積み前で撮られたものかもしれません。

       

       

      「懐(なち)かさん戦前の首里城」は6月24日まで。イチャンダ(^o^)/


      亀瀬(カーミージー)の歩き方

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        浦添の空寿崎(くうじゅざき)へ行ってきました。2、3年前に行こうとしたものの、西海岸道路の工事で入れませんでした。

         

        空寿崎の先端は亀に似た形をしていて、亀瀬(カーミージー)と呼ばれています。twitterに載せた動画はこちらから。

         

         

         

        今年開通した西海岸道路(浦添区間)は西洲から宜野湾バイパスまでの間、つまりキャンプキンザーの海岸線を通る道路です。

         

        西海岸道路は、2つの区画に分かれています。南側の臨港道路浦添線は歩道があり人も歩けます。北側の浦添北道路(牧港大橋)は自動車専用で人は歩けません。

         

         

        浦添北道路から見たカーミージー。今や、浦添市の自然海岸はここだけです。

         

         

        では、カーミージーまでの道順を紹介しましょう。

         

        那覇方面から臨港道路浦添線を北上すると、浦添北道路に入る直前に信号があるので、そこを右折します。右折した直後の左手に小さな駐車場があるので、そこに車を停めましょう。カーミージーを訪れる人のために仮設トイレがあります。

         

        宜野湾方面からは浦添北道路の牧港大橋を渡って最初の信号を左折です。

         

         

        駐車場から浦添北道路に沿って北へ歩きます。

         

         

        突き当たり左手に、浦添北道路を横切るためのトンネルがあります。

         

         

        トンネルを抜けると、カーミージーが見えてきます。

         

         

        フェンスの間を歩きます。

         

         

        カーミージーの北側には小さなビーチがあります。バーベキューをしたり、水着姿をみせつけたい方はこちら。

         

         

        南側はリーフで、シュノーケリングでプカプカしたい方はこちら。

         

         

         

        では、カーミージーに向かう小道を進みましょう。

         

         

        小道の先に森の入口があります。ここを登りましょう。

         

         

        登りましょう。

         

         

        森を抜けて、亀の背中に出ました。

         

         

        こちらが亀の頭。

         

         

        開放感溢れる景色が広がります。この日は曇りで海の色がイマイチなのが残念です。

         

        那覇方面を眺めると、キャンプキンザー沖に広大なリーフが見えます。

         

         

        沖縄の行政はこのリーフを埋め立てようとしています。まったく何をしたいのかわかりませんが、とにかく土砂をぶちまけることは決めたようです。

         

        埋め立て後もカーミージーは残りますが、広大なリーフは那覇新港や西洲のような埋め立て地となり、今とはまったく違う景色になるでしょう。そうなる前に是非、カーミージーを訪ねてみて下さい。できれば、天気の良い日に。

         

        では、終わります。


        牧志ウガンで沖縄角力

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          開催が年一回で、毎年見逃していた沖縄角力を、やっと観ることができました。

           

          「牧志ウガン奉納全島角力選手権大会」

           

           

          会場はモノレール牧志駅近くの牧志ウガンです。

           

           

          随分(5年も)前に会場の下見は済ませてまして、その時の投稿はこちらです。

           

          牧志の散歩(3)沖縄角力 

           

           

          広場に砂を敷いた土俵で、取組みが始まっていました。twitterに動画を載せましたので、まずご覧下さい。

           

           

          動画に「父ちゃん、頑張れ〜!!」と子供の声が入っています。「おお、一緒に応援しよか」と思ったものの、どっちが父ちゃんなのかわかりません(笑)

           

           

          沖縄の角力とナイチの相撲は、ルールが大きく異なります。

           

          (1)空手着のような角力着を着用して右四つに組み、相手の帯を握って試合開始です

           

          (2)相手の両肩を土俵に付けたら勝ち。土俵から出ても勝敗には関係無く、土俵中央に戻って試合を続けます

           

          (3)試合は3本勝負。但し、試合時間は計3分と決まっていて、時間になった時点の獲った本数で、それが同点なら判定で勝敗が決まります。

           

           

          相撲は離れた状態から立ち合うことで試合が始まり、突っ張ったり、押したり、叩いたりしますね。その後、四つに組めば力士の動きが一旦止まります。角力はその状態で試合が始まるので、相撲のように派手に動き回ることにはなりません。

           

          だから、一方が技を出した時に動きが生まれ、その技が決まるか、技を出したことでバランスが崩れて相手に逆転されるか。静から動に移る局面に緊張感があり、そこが角力の見どころの一つだと思います。

           

          先ほどの動画で、先に技をかけたのは白。審判の陰で分かりにくかったかもしれませんか、投げ返して勝ったのは赤。投げた勢いが余って赤は仰向けになってしまいました。

           

           

          試合が進むにつれて、先に技をかけた方が勝率が悪い傾向にあると気付きました。仮に、そうだとすれば、相手が技をかけてくるのを待ったほうが有利です。相手が技をかけたくなるような圧力のかけかたがあるのかもしれません。

           

          両者共に動きが無いと、マイクを持った進行役が「はいっ、投げれぇ」などと動きを促します。だから、観客の野次は大歓迎のようです。

           

           

          相撲には一種の様式美があり、力士を神格化する雰囲気がありますが、角力にはまったくそんな雰囲気は無く、昔、畑の横で行われていた娯楽そのものです。それでいて、なかなか奥深い競技だということは、初めて観た私でも分かりました。


          ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(6)

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            航空写真をもう一度見ましょう。私は上から3番目のマークにいます。城岳の丘の南端です。

             

             

            一方、丘の北端は城岳公園で、そこを下ると那覇高校。

             

            北斎の城嶽霊泉に描かれた城岳は山の形をしてました。1950年代にその山が平らに削られて新世界遊園地になり、閉園後、那覇市が公園を整備しました。

             

            城嶽(グスクダケ)は古波蔵の拝所。城嶽を城岳に書き換えるのは渋々オッケーとしても、ジョウガクは無いでしょう。

             

            「トゥミグシク」→「豊見城」→「トミシロ」も同じ。城(グシク)をジョウと読んだり、シロと読んだり、ナイチ読みに変える必要がありますかね。

             

             

            丘の道に戻りましょう。

             

            森を右に見ながら進み、

             

             

            突き当たりの森の手前を右です。

             

             

            この辺りから、このブログの読者で、幼少期を楚辺で過ごしたうちなーんちゅさんのナワバリに入るみたいです(笑)

             

             

            中山アパート前からの下り坂。丘の道はこのままひめゆり通りに出たのでしょうが、かつての路上にマンションが建ってます。

             

             

            突き当たりを右に迂回して、丘の道に戻りました。ひめゆり通りはもうすぐです。

             

             

            マンションを迂回する途中、聞き覚えのある琉舞研究所がありました。安次嶺利美琉舞研究所。

             

             

            看板の前でしばし考えて、思い出しました。最近ここに琉球舞踊家の当銘由亮さんが芝居の稽古に通われてました。ここで待ち伏せしてサインを貰えばよかった(笑)



            さて、ひめゆり通り(与儀大通り)に出ました。農協会館前バス停のすぐ横です。

             

             

            ひめゆり通りを横断し、丘の道は続きます。

             

             

            この場所は車両通行止め。

             

             

            再び車道に戻り、丘の道は古波蔵の丘を登り始めました。ここから真玉橋の手前までは迷いようの無い一本道。ただし、西行きの一方通行です。

             

             

            ここから先はまたいずれ。

             

            投稿6本を読んでいただいた読者の皆さん、お疲れ様でした。


            ありがとうございます。m(_ _)m


            ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(5)

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              ところが、この展望台フージーは封鎖されていました。

               

               

              ホームレスが雨宿りしたり、若い兄ちゃん達がタムロしたり、用も無いのに入って来るオヤジ(私ですが)がいたりするからでしょうね。

               

              やむを得ず、階段から私が進むべき道を観察しました。前方に森が見えるので、あの森の左側を抜けるようなルートをイメージしましょう。

               

               

              その結果、丘の道はこの駐車場付近で左に入ることが分かりました。航空写真の上から2つ目のマークの位置です。

               

               

              進みます。

               

               

              進みます。

               

               

              進みます。

               

               

               

              ひめゆり通り(与儀大通り)の旧農協会館裏の崖地に到着し、眺望が開けました。ここが城岳の丘の南端です。

               

               

              那覇市場から国場に向かう丘の道は、この辺りで中間点。市場で日用品などを買った国場の女性は、このあたりで天秤棒を肩から降ろし、ホッと一息入れたかもしれません。

               

               

              それにしても片道5キロ。行きも帰りも天秤棒を担いで、よく歩けたものです。しかも、陽射しが強い沖縄で。

               

              女性が天秤棒で運べる野菜は大した量にはなりません。だから、一日に何往復もしたそうです。

               

              私も八百屋で野菜を運んでますが「今日から天秤棒で運びなさい」と言われたら退職ですよ。退職(笑)

               

              (続く)


              ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(4)

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                ハーバービュー通りから丘の道を歩き、城岳のガジュマルに着きました。

                 

                戦前、このガジュマル前には琉球競馬の馬場がありました。

                 

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                この石像は琉球競馬に使われた琉球馬です。競うのは速さではなく型。上下動する馬の上で、騎手が一定の姿勢を保つ美しさを競うものです。そのあたり、梅崎晴光さんの名著「消えた琉球競馬」に詳しく紹介されています。

                 

                日本軍が沖縄に来て以来、重用されたのは大型の軍馬で、小型の琉球馬は見向きもされませんでした。ところが、脚の長い軍馬は各地の石畳道で転びまくったそうです。

                 

                (v^_^)v

                 

                ユーシッタイ、ユーシッタイ

                ワンの言うこと聞かずにユーシッタイ♪

                (©きいやま商店)

                 

                そしたら、日本軍は石畳を剥がしてしまい、砕いた珊瑚を敷いたんですね。沖縄の石畳道が失われた一つの理由です。腹の立つ。

                 

                 

                馬場の話が長くなりました。丘の道に戻ります。

                 

                丘の道は現在の城岳小学校裏を通っていましたが、戦後の宅地開発により道路が碁盤の目に整備されてしまい、今、その痕跡はありません。

                 

                航空写真の5ヶ所に黄色のマークを付けました。私は今、城岳のガジュマル前、一番上のマークにいます。

                 

                 

                所々に残っている小さな森は、城岳の丘の端っこ、つまり崖の上にあります。丘の道は、この小さな森に沿って、その内側を通っていたので、5つの黄色のマークを目安にすれば大きく逸れることはないでしょう。

                 

                 

                城岳のガジュマル前から、壷川東交差点に向かう下り坂に入ります。

                 

                 

                戦前まで、城岳や古波蔵の丘から崖下(国場川河川敷)に下りるには、人がやっと通れるよう道しかありませんでした。その葛折りの道が古波蔵の崖地には残っています。

                 

                だから、この下り坂は戦後、重機を用いて強引に通した道で、私のオンボロワゴンは雨の日、この急坂を登れません(笑)

                 

                 

                この下り坂のどこかで、丘の道は左に逸れますが、その場所を特定するには、高い場所から眺めるのが一番。

                 

                フフフ。近くにこんなアパートを見つけました。二階建てのアパートですが、屋上に展望台のようなものがありますね。

                 

                 

                展望させてもらおうじゃないですか(笑)

                 

                (続く)


                ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(3)

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                  JUGEMテーマ:地域/ローカル 

                   

                  ハーバービュー通りから丘の道に入りました。

                   

                  街路樹が植えられ、路面にはミンサーの絣柄が描かれてる、丘の道最厚遇区間。いつ(五)の世(四)までも末永く。

                   

                   

                  まあ、これは丘の道が厚遇されているのではなく、この先に格式高いホテルがあるからですね。はい、到着。

                   

                   

                  ホテル前を抜けると丘の道は壷川から泉崎りうぼうに向かう市道に出ます。一見、突き当たったように見えますが、本来の道筋は左の歩道部分なので、ちゃんと左奥に向かって抜けてます。

                   

                   

                  この辺りはかつての湧田村で、獅子松尾(シーシマーチュー)と呼ばれる松林がありました。高麗出身の陶工張献功(ちょうけんこう)が国場からここに移り、ヤチムンの窯を開きました。

                   

                   

                  さて、丘の道は続きます。

                   

                   

                  突き当たりに小さな森が、見えてきました。あの森が、この先の道筋を追うヒントになりますので、覚えておいて下さい。

                   

                   

                  突き当たると思われた丘の道は、森の左手をすり抜けています。

                   

                   

                  ここは私が好きな道です。城岳一帯は開発が進み昔の面影はありませんが、ここだけは古道を歩いてる実感があります。

                   

                   

                  丘の道は市道に合流し、

                   

                   

                  城岳のガジュマル前に出ます。

                   

                   

                  (続く)


                  ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(2)

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                    JUGEMテーマ:地域/ローカル 

                     

                    国場から那覇市場までの距離は片道約5キロ。古波蔵と城岳の崖上を通る古道を丘の道と呼ぶことにします。

                     

                    丘の道は真玉橋の西、国道沿いのパチンコ屋脇から始まり(地図のバルーンの位置)、直線的に北西方向へ向かい、ひめゆり通り(与儀大通り)の中央ツーリスト本社横まで続きます。

                     

                     

                    古い道筋が残ってはいるものの、天秤棒や荷車で野菜を運んでいた頃を偲べるものは何も無く、民家の立派な石垣や大きなガジュマルが残るくらいです。

                     

                     

                    さて、場面を那覇市東町にあった那覇市場に移しましょう。

                     

                    天秤棒を担いで那覇市場を歩く女性。野菜を運んで市場に着いたところか、野菜を売り終わり、魚や塩などの買物を済ませたところか、天秤棒に荷重がかかっています。

                     

                     

                    那覇市場を出た彼女は泉崎橋を渡り、丘の道を歩いて国場に帰ります(ということにしましょう)。

                     

                    久茂地川の川筋が変わっているので、泉崎橋があった場所は国道58号線の路上です。泉崎橋を渡った女性は現在の那覇市役所方向に向かいますが、古い道筋は残っていません。

                     

                    ハーバービュー通り(那覇高校前の通り)まで来て、やっと丘の道が現れます。ハーバービューホテルに向かう一方通行です。

                     

                     

                    ここからひめゆり通りまで、丘の道を歩きます。

                     

                    (続く)


                    ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(1)

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                       

                      私が住む那覇市国場は、かつての野菜生産地。大消費地の那覇に近い上に、国場川や漫湖を利用した水上交通が可能で、車や鉄道の無い時代では、他集落に対して優位な立場にありました。

                       

                      漫湖の水上交通(1)

                      漫湖の水上交通(2)

                       

                      水上交通に用いる舟はサバニですから、野菜を運ぶ様子は東南アジアの水上マーケットをイメージすれば良いでしょう。

                       

                       

                      また、国場は野菜の集積地でもありました。国場川の支流から小さな舟で野菜を国場に運び、大きな舟に積み替える水上ネットワークがあったようです。

                       

                       

                      一方で、肉や魚、塩など、生活に必要な品物を入手するために野菜を売る人達もいて、その人達は陸路で那覇に野菜を運びました。運ぶ方法は頭に乗せたり、天秤棒を担いだり、荷車をひいたり。

                       

                      今なら、国場から那覇までは平坦な国道を歩けばいいのですが、当時そこは国場川。陸路は古波蔵や城岳の崖上にありました。真玉橋から古波蔵の丘を登り、ピークを越えて下った所が現在のひめゆり通り。そこから再度、城岳の丘を登り、下った所が現在のハーバービュー通り。泉崎橋を渡って、那覇市東町にあった那覇市場に到着しました。


                      (続く)


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                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
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