砂守勝巳さんの写真集「漂う島とまる水」に載ってるオジぃは砂川恵勇さん。
もう亡くなったと聞いてますが、西表島の船浮集落から西に向かって船で30分ほどの網取湾ウダラ浜で、自給自足の生活をしていた人です。
廃材で建てた小屋に住み、小屋の側には湧き水がありました。食料は猪、大ウナギ、自家菜園の野菜、自生のパパイア、魚や貝など。猪や大ウナギを売ったお金で、調味料、酒、タバコなどを揃えていたとのこと。
那覇市ほどの広さの無人地帯があって、その真ん中に一人で暮らしている感覚。不便さの代償に得られたものは「自由」。
でも、「本当に自由だったのか?」とは思います。
恵勇オジぃのような人は、西表島に常に2、3人はいるようです。外離島のフリチンオジぃはテレビで紹介されたことで人気者になり、島に観光客が押し寄せたため、島の地主に追い出されてしまいました。今はどうか知りませんが、崎山集落跡にもオジぃが一人で住んでました。全員がオジぃ(笑)
船浮集落の池田米蔵さんは、島の動物の生態に気をつけていて、イリオモテヤマネコがエサ場にしていた浜で、その姿が見えなくなると「あら、どうしたかな?」と思う人。だから同じように(笑)オジぃ達のことも気になって、定期的に船で巡回し、様子を見ていたそうです。頼まれた訳ではないのに。
恵勇オジぃにとって、米蔵さんは一回り年下の「友達」。恵勇オジぃが獲った大ウナギは米蔵さんが買い取っていました。
子供の背丈ほどもある大ウナギは、本物(?)のウナギに比べるとかなり味が落ちると聞いています。それを買い取って米蔵さんはどうしていたのか。米蔵さんに会う機会があれば聞いてみたいと思いますが、私の予想では、恵勇オジぃに現金を渡すための口実だったのではないかと。
米蔵さんは、船浮の自宅に恵勇オジぃを招くこともあったそうです。それを恵勇オジぃに言わせれば「友達だから」。米蔵さんも恵勇オジぃを友達と思っていたでしょうが、それよりは、たまには腹一杯食べさせて、布団に寝かせてやろうという気持ちだったのだと思います。
恵勇さんの話が続きます。恵勇さんが住んだ浜から、山を越えて西表島の南岸に出たところが鹿川浜。道路終点の南風見田の浜から海岸を歩いて来れるので、大学の探検部みたいな人達がキャンプをします。長距離の海岸線を歩くのは大変と思いますが、ハブのいるジャングルを歩くよりは安全だし、道に迷うことがありません。そして、恵勇さんは探検部の人達と話をしたいがために、鹿川浜に向かうのでした。
うまく探検部と会えたら、酔っ払った恵勇オジぃは家に帰れません。また、浜に誰もいなかったら翌日まで待とうとします。そんな事情で、恵勇オジぃは鹿川浜に別宅(?)を建てました。そして、探検部に相手にしてもらえず「シッシッ」とされた時は、そこに引きこもりました(笑)
恵勇オジぃは仙人とかターザンとか呼ばれていたそうですが、多分、そんな人ではなく、そこら辺の普通のオジぃなんですよ。
米蔵さんの好意を受け入れたり、人恋しくなって山を越えたりする人が「俺は自由だ」と言うのは、少し違う気がします。「自由でいいですね」と言われるから、「そうだ」と返しただけのことかもしれません。
私が、西表島西部の崎山、網取、鹿川の集落跡に興味を持つきっかけになったのは、パーシャクラブのデビューアルバムに収録された崎山節でした。
三つの兄弟集落は、琉球王府が波照間島の住民の一部を強制移住させたもの。
「せめて島を見たいと思い山に登ると、そこに懐かしい生まれ故郷が見える。同時に、自分と島を隔てる海によって、決して島には戻れないのだということを気づかされてしまう。悲しくて、涙がどんどん流れて止まらず、せっかく山に登ってきたのに、涙で島が見えなくなってしまう」
この悲しい唄に、新良幸人の声と三線がピタッと合うんです。そして、つらい境遇にありながらも、生まれてきた名曲達。
崎山節・崎山ゆんた・ミナトーマ
そこに立つことが私の長年の夢で、言わば憧憬の地。まあ、そんなことがあり、この地域の情報は気をつけて集めてる訳です。それで、昨日、今日とまるで見てきたかのような話を投稿しています(^-^)/