JUGEMテーマ:地域/ローカル
ナイチの人類学者らが、昭和の初期に沖縄から持ち去った琉球人の遺骨(26体)が、今も保管されているらしく、第一尚氏の子孫らが、その返還を求める訴訟を起こすようです。(→こちらから)
遺骨は1929年に京都(帝国)大学医学部の金関丈夫(1897-1983)当時助教授らが、今帰仁の百按司(ももじゃな)墓から持ち去ったもの。金関氏はその翌年の論文「琉球人の人類学的研究」により博士号を取得し、後に人類学の大家と呼ばれるような研究実績を残しています。
日本人はどこから来たのか、何故、琉球人は大和人よりアイヌ人に近いのかなど、実に興味深いテーマだと思います。ところが、その研究には遺骨が必要ということ。アイヌ人、朝鮮人、中国人、台湾人などの遺骨も同じように持ち去られていたんですね。
かねてより、遺骨返還に向けて今帰仁村教育委員会が京都大学と協議していたようですが、訴訟に移行するということは、協議が決裂したということ。
「グダグダ言わずにさっさと返せ」と思いますが、そう簡単にはいかないようです。
原告の主張は「行政や警察から遺骨を持ち出す許可を得ていたとしても、子孫は許していない」というもの。私はその詳細を知りませんが、京都大学の行為を直ちに違法とは言えないようです。
そのため、百按司墓に納められていた遺骨が原告の先祖のものと言えるのかとか、(国連が認めた)先住民族が遺骨の返還を求める権利が琉球民族に適応されるのかとか、つまり、原告側(持ち去られた側)が、遺骨返還の正当性を示す立場にあります。
日清戦争の終結が1895年。かつての宗主国に「勝ってしまった」日本は、強国と呼ばれるようになりました。その時期に琉球民族に対する同化政策が加速し、沖縄県民もそれに応じようとしました。方言札が使われるようになったのもこの頃です。
1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会の学術人類館では、琉球人(辻の尾類)が展示(?)されました。今なら「なんてことをするんだ」と頭にきますが、尾類は拉致されたわけではなく、沖縄の行政が要請に応じたんですよ。
百按司墓から遺骨が持ち去られたのは、そんな時代でした。
京都大学は遺骨を持ち去る上での体裁は整えていたようで、裁判ではそれを主張するのでしょうが、それは失礼というもの。
例えば、読谷の尚巴志の墓でその子孫が拝んでいる時に「そこに尚巴志の遺骨が本当にあるのか」なんて言えますか?。ウチナーンチュにとって先祖は神。拝みの行為は単なる墓参りではなくて信仰なんですよ。
京都大学は裁判などせずに、遺骨を自主的に返還するべきだと思います。そして、人類学の研究試料として、今後も遺骨が必要と言うのなら、改めてその一部をお借りできるようお願いするべきでしょう。
「人類学者なのに、そんなことも分からんのか」と言いたいわ。ったく。