南風原町本部の謝名門中宗家

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    FEC仲座先輩のYouTube。最初の数十秒に現れる古民家に注目して下さい(もちろん本編も)。


     

    この古民家に心当たりがあったので買物のついでに寄ってみたら、正解で嬉しい(笑)

     

     

     

    沖縄県の市町村で唯一、南風原町には海がありません。那覇のベッドタウンとして宅地が広がり、それ以外はカボチャやヘチマの畑。

     

    だから長い間、南風原町の観光案内には「飛び安里」と「ウルトラマン」くらいしか書くことが無かったんですよ。

     

     

    南風原町にはいくつかの古い集落があり、楽しく散歩ができます。町役場もやっとそのことに気づいたのか、空き家になっていた本部の古民家を観光コースに組み込み、イベント会場としても使うことにしました。

     

     

    iPhoneの広角レンズが役に立ちます。

     

     

    貯水タンク完備。

     

     

     

    そして、古民家のそばを抜ける「かすりの道」。

     

     

    このタイル状の道を歩くと、チャン(喜屋武)、ティーラ(照屋)、ムトゥブ(本部)を一回りできます。あちこちに琉球かすりの模様が組み込んであり、これはトゥイガー(鳥小)。

     

     

    沖縄を訪れる観光客が一千万人を超えるなんて、私はちょっと腑に落ちないんですよ。実力以上の結果が出てるんじゃないかと。

     

    南風原町には海が無いので、リゾートホテルや人工ビーチに頼れません。だからこそ、今あるモノを整備して、魅力あるコンテンツに仕上げるしかありません。

     

    南風原町には、近い将来、ビーチだけが頼りの他市町村のお手本になって欲しいと思います。


    照屋ウシさんのお孫さん(2)

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      照屋ウシさんのお孫さんから連絡をいただいたおかげで、投稿を訂正することができました。その続きをもう少し。

       

       

      こちらは、農連プラザから浮島通りへ向かう通りです。突き当たりが浮島通り。

       

       

      浮島通りに入って最初のスージを右に入ると香港通り。「糸満の三羽ガラス」と呼ばれた照屋ウシさん(照屋商事)、金城夏子さん(幸陽商事)、金城カネさん(金城商事)の店が、そこで軒を並べていました。

       

       

      某青果店のお父さん(90)は元貿易商で、三店それぞれと取引があったそうです。

       

      C「照屋商事の照屋ウシさんを覚えてますか?」

       

      父「覚えてるよ。(写真を見て)そうそうこの方だ」

       

      C「よく覚えてましたね」

       

      父「農連プラザから浮島通りへ行く通りに私が建てた家があってね。そこをウシさんに貸してたんだよ」

       

       

      驚くじゃないですか。上の写真の左側、手前から三軒目の場所にお父さんが建てた家があり、そこをウシさんが借りてたと。職住接近。香港通りまで徒歩2分です。

       

      それから、つい最近まで、この通りの中ほど左側に幸陽商事の事務所がありました。

       

      金城商事は浮島通りに入って徒歩3分。このブログに度々出てくるあの金城商事です。

       

       

      お孫さんにとって新しい発見が二つあったようです。一つは、オバァを知る人がまだ現役で働いていること。つまり、某青果店のお父さんね。もう一つは、オバァがヤチムンの里に住み、そこで働いていたこと。お孫さんはプロの陶芸家だそうです。

       

       

      香港通りの三羽ガラスは私にとって歴史上の人物でしたが、長い間に色々なことを知り、私の生活との接点が生まれてきました。そして、もっと深く知りたくなる。それが楽しくて私は沖縄に住み、このブログを書いてると言えますね。


      照屋ウシさんのお孫さん(1)

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        戦後復興期の沖縄で実業家として活躍した金城夏子さん(1916-1954)と照屋敏子さん(1915-1984)。

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        そして、金城カネさん(1911-1985)。



        三人は「糸満の三羽ガラス」と呼ばれていました(出典:ナツコ 沖縄密貿易の女王)

         

        やがて、壺屋の香港通りで軒を並べて店を構え、競い合った金城夏子さん(幸陽商事)と照屋ウシさん(照屋商事)と金城カネさん(金城商事)。

         

        この三人を金城カネさんが「糸満の三羽ガラス」と呼んでしまったんですよ。(出典:私の戦後史第五集)

         

         

        それで私は、照屋敏子さんと照屋ウシさんは同一人物であろうと考えたんですね。例えば本名ウシさんで通称敏子さん。

         

        そしてその「糸満の三羽ガラス」の話題を投稿したのが三年前のことでした。

         

        香港通りはどこなのか?(1) 女王と女傑 

        香港通りはどこなのか?(2) 金城カネさん 

        香港通りはどこなのか?(3) お父さんの証言

         

        実は、その時チラッと思ったんですよ。敏子さんとウシさんは、本当に同じ人なのかと(^^)

         

        とは言え、既に投稿は済んでいて、仮に二人を別人とするならば、一から書き直しになるんですよ。

         

        だから「まぁ、いいか」と(^^)

         

        考えてみて下さいよ。実はカラスが四羽いて、時と場合によって三羽の選び方が違うなんてことがありますか?(笑)

         

         

        ところが、驚くじゃないですか。昨日、照屋ウシさんのお孫さんからメールをいただいたんですよ。私の投稿を読んだとのこと。

         

        それは実に優しい文面で私は大変にいい気持ちで読み終えましたが、その趣旨は「敏子さんとウチのオバァは別人でしょ?」というもの。

         

        そしてお母さん(ウシさんのお嬢さん)に確認したところ、ウシさんが敏子と呼ばれたことは無いと。

         

        はい。照屋敏子さんと照屋ウシさんは別人で確定しました。大変に申し訳ありませんでしたm(_ _)m

         

         

        お孫さんからいただいた写真で、照屋ウシさんとその隣にお孫さん。ウシさんのモザイクは私が入れました。

         

         

         

        (続く)


        仏壇通りの四車線化工事

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          先日、ツイッターにアップしたこの動画。「これがあの仏壇通り!?」と驚いたでしょ?

           

           

          撮影したのは、開南向き〜神里原向き〜与儀十字路向き〜再び神里原向き。

           

          仏壇屋は一軒だけになってしまい、もはや仏壇通りとは呼べなくなりました。

           

           

          四車線化工事は二ヶ所を残すのみとなっています。

           

          一つは与儀十字路の歩道橋です。こいつのスロープが仏壇通りの入口で、ゲートのように鎮座しています。

           

           

          周辺の土地に余裕が無い中、どうやってこのゲートを広げるのか。私には思いつかないので、答えが楽しみです。

           

          もう一ヶ所が照喜名製麺所。移転先の工場建設が終わらないらしく、移転反対の闘争小屋みたいになってます(笑)

           

           

          二年前のこと。この建物の外壁が崩れてしまい、仏壇通りが通行止になる事件がありました。

           

          照喜名の婆さんが言うには「台風の風で壁が崩れた」と。

           

          「それはちゃーうやろ」と言いたい。

           

          外壁が崩れた日に、たまたま近くを台風が通過しただけの話。濡れ衣を着せられた台風は「えっ、え〜!!」と叫んだことでしょう。

           

          あの難しい婆さんと長期間の移転交渉を続けてきた当局職員に、お疲れ様と言いたい。

           

           

          仏壇通りに面していた商店を取り壊すと、当然、二列目は横を向いてます。

           

           

          コザではこの横を向いた建物の壁にペイントし、コザ十字路絵巻を完成させました。仏壇通りの場合、二列目から先は宅地なので、上手く壁が揃いませんね。

           

          こちらは二列目が空き地。

           

           

          その奥にあった住宅が、仏壇通りから直接見えることになりました。う〜む。何かいきなりカーテンを開けられて、「キャッ!!」みたいになってますね。

           

          なってないか(笑)


          北谷町謝苅原(じゃーがるばる)

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            一つ前に投稿した謝苅の映画館(ナポリ座)跡。ここが謝苅青年会エイサーの演舞ポイントの一つだと聞きました。

             

             

            私は謝苅が北谷町の字だと勘違いしてましたが、正しくは北谷町字吉原謝苅地区です。

             

            ナポリ座前のバス停は原名(ハルナー)で謝苅原。地元ではこの辺りを謝苅三叉路と呼んでいるようです。

             

             

            字吉原にもう一つ青年会がありまして、それが栄口(えぐち)青年会。

             

             

            北谷町を代表する二つの青年会が隣り合わせなんですね。素晴らしいじゃないですか。

             

            今年の全島エイサーは中止かもしれませんが、道ジュネーはやるでしょう。その場合、今年は謝苅と栄口のエイサーを観に来たいと思います。

             

             

            沖縄の芸能界に詳しくない方は退屈な話かもしれませんが、よなは徹と松田一利は共に謝苅出身で同い年(1976)。

             

             

             

            そして、二人の師匠がやはり謝苅出身の松田弘一さん。沖縄民謡界の大御所でしたが、昨年、お亡くなりになりました。

             

             

            その松田弘一のお嬢さんが松田しのぶ(写真右)で、同じく謝苅出身のチアキ(写真左)と同級(1972)。

             

             

            チアキと旦那(かんなり)のユニットは「しゃかり」。謝苅をしゃかりと読み替えたんですね。

             

            あっ、それから(写真中)は彩風の仲田かおり。彼女は石垣島出身です。

             

            北谷町の一集落に、何という芸能人密度。とは言え、すぐそこに芸能人が住んでるのが沖縄ですから、これが普通なのかもしれません。

             

             

            ところで、北谷長老酒造工場前の坂道でお分かりのように、謝苅は急斜面に形成された集落です。これほど立地の良くない集落は珍しいと思うほど。

             

            そしたら、やっぱりと言うか。戦後、米軍に占領されて、北谷の平野部を追い出された人達が、謝苅原に移ったんですね。松田弘一さんのお父さんの世代だと思います。


            北谷長老酒造工場前の坂道

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              北谷長老の酒造所前に急な坂があると聞いて、急坂マニアの私が出動しました。

               

              ところがねぇ。私はおそらく本島で一番急なアンマーウンケーの坂を経験してるので、どこへ出かけても負ける気がしないのよね。

               

              豊見城のむっちゃ急な坂道 

               

               

              しかし、北谷長老は好きな古酒。酒造所の前を通りつつ、心の中で「頑張れ!!」と呟くことにヤブサカではありません。

               

              さて、着きました。

               

               

              ここから、あの丘の上まで一気に駆け上がるわけですね。

               

              ここは北谷町字吉原。私は謝苅(ジャーガル)が北谷の字だと思ってましたが、字吉原に属する地区の一つなんですね。

               

               

              登ります。

               

               

              右手に北谷長老酒造所。

               

               

              おお〜!!

               

               

              来た来た(^o^)/

               

               

              やるじゃないですか。

               

              健闘しましたが、アンマーウンケーの坂と比べると距離が短く、傾斜に恐怖を感じません。

               

              これは与那原町板良敷の次郎坂と同等の急坂と言えるでしょう。つまり、本島2位クラス。真和志高校の地獄坂より距離は短いものの、傾斜は上だと思います。

               

               

              こちらが北谷長老酒造工場。

               

               

              北谷長老はいい香りのお酒です。沖縄最古の酒造所の一つですが、家族経営なので出荷量は少なめ。当初は北谷にしか出回っていなかったそうです。

               

              そして、このオジィが北谷長老こと南陽紹弘禅師。北谷生まれの僧侶で首里の建善寺の住職を務めました。

               

               

              キャンプフォスターの第3ゲート近くから見える基地内の小さな丘に北谷長老の墓所があり、長老山と呼ばれています。

               

               

              首里から北谷に戻った北谷長老が開いた樹昌院。臨済宗の寺院で、北谷町字大村にあります。

               

               

              ぼ、ぼうず丸儲け(笑)

               

              ではなくて、北谷が生んだ立派な僧侶を、町をあげて盛り上げてるってことでしょう。

               

               

              最後に、謝苅の映画館(ナポリ座)跡に寄りました。1950年代の映画館ですが、なかなかオシャレな建物です。

               

               

              謝苅青年会のエイサーを見る時は、ここに立っていれば良いそうです。

               

              さて今年の夏。エイサーは見れるのか。


              戦後もあった方言札

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                1969年の沖縄。てっきり戦前の話かと思っていたら、戦後も続いていたんですねぇ。

                 

                 

                小学校の教師がよくもまあ、こんな酷い指導をしてたものだと思います。この男の子には、そんな紙は破って捨てていいんだぞと言ってやりたい。

                 

                 

                この時代の教師が子供達にウチナーグチをやめさせようとした理由は「将来、進学や就職で本土に渡った時に不自由が無いように」というもの。

                 

                言葉を単なる意思伝達の道具だと考えていたのかもしれません。であれば、日本語のように国際的に孤立した言語ではなく、英語を学ばせるべきだったでしょう。

                 

                 

                1969年の私は12歳。写真の男の子は私より年下ですが、同じ世代です。

                 

                私と同じ世代のウチナーンチュはこんな指導を受けて、方言を使うことは恥ずかしいことだと思い込んでしまいました。

                 

                そしてウチナーグチの衰退を嘆く風潮となった昨今、「ウチナーグチを継承しなかった」などと責められるのですから、たまったものじゃあありません。

                 

                 

                言葉は意思伝達の手段であると同時に、文化を継承する役割を持っています。

                 

                ウチナーグチで物事を考えた結果と、標準語で考えた結果とは異なり、それを文化と呼びます。言い換えれば、言葉を失えば文化を失うということ。

                 

                ウチナーグチを使うなと言うのは、沖縄の文化を捨てろと言ってることと同じです。1969年の小学校教師はそのことに気付かなかったのか、気付いてはいたけれど当時の指導者に従順であろうとしたのか。

                 

                 

                現代が多様性を認める社会になっているかと問われれば、当時よりはマシかもしれませんが、充分とは言えないでしょう。

                 

                と言うことは、今の子供達の世代から「2020年は酷い時代だった」と言われてしまうかもしれないってことですね。

                 

                まあ、言われるでしょうね。メダカ社会ですから(^^)


                それはおかしいでしょ?

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                  調「うわぁ」

                   

                  C「どした?」

                   

                  調「きな粉2パックを間違えて2キロ注文しちゃいました」

                   

                   

                   

                  C「8パック余るってことか」

                   

                  調「はい。余ったきな粉は持って帰ってもらえません?」

                   

                  C「それは無理」

                   

                  調「どうしてですか?」

                   

                  C「どうしてって、貴女のミスをどうしてウチやウチの仕入先が背負うのよ」

                   

                  調「え〜〜」

                   

                  C「え〜〜じゃないの。2パックの注文に間違えて10パック持って来たら引き取ってくれる?」

                   

                  調「それは無理」

                   

                  C「バランスが悪い人だなぁ」

                   

                  調「そこをなんとか(泣)」

                   

                  C「じゃあ1ヶ月預かるよ。他の園から注文があったらこれから出して、それでも余ったら引き取って」

                   

                  調「・・・」

                   

                  C「置いとくの?」

                   

                  調「あっ、いえ。お願いします」



                  (解説)

                  この調理師は「はい。余ったきな粉は持って帰ってもらえません?」のところで間違えました。

                  あたりまえみたいな言い方をせず、困った顔をしてさえいればオジサンが・・(笑)


                  ゲート通りにあるセイコーの看板

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                    コザのゲート通りを歩いてたら、こんな看板がありました。

                     

                     

                    ツイッターなら「ゲート通りに古いセイコーの看板がありました。変なの(笑)」とか呟いていればいいけど、ブログは何かを語らないとね(^^)

                     

                     

                    赤いクーペはトヨタソアラ。高級車ですねぇ。せっかくだから、下から順に見ましょうか(笑)

                     

                    一階はdemure(デミューア)。レディースのウェア、シューズ、バッグなどのインポート商品を扱っています。

                     

                    建物が古いので「えっ、入って大丈夫?」とひるむかもしれませんけど、こちらが店内の写真。大丈夫みたいです。

                     

                     

                    パーティードレスの品揃えが充実しているそうで、在沖米兵の奥様お嬢様御用達。美浜とおもろまちにも店舗があり、そちらはカジュアルな商品が豊富とのこと。客層が違うんですね。

                     

                    セイコーの看板を見たい人はこのシンプルな地図に従って、デミューアを目指して下さい。

                     

                     

                     

                    デミューアの横には、二階店舗の入口があります。

                     

                    Crossed Pistonsは米兵向けのバーです。

                     

                     

                    お店のFacebookを見ると、ジェレミー君の送別会の案内などがありました。SAY SAYONARA。

                     

                     

                     

                    一階も二階も、ちゃんと商売してますね。では、三階は何でしょう。物置きか、アパートか。

                     

                     

                    屋上へはこの部屋の窓から上がるしかないみたいです。階段を支えてる4本の支柱の頼りないこと。

                     

                    セイコーはこの建物のオーナーに、いまでも広告費を払い続けているのか?。それは無いよねぇ。

                     

                    広告契約が完了してるのなら、その時にセイコーは看板を撤去するはず。何故、そのままなのか?

                     

                    オーナーがね。

                     

                    「看板の撤去?。えー、そんなのはこっちでやるさ。なんで。みんなそうしてるさ。あんたなんか変な人達だね。だー、お金を渡しなさい」

                     

                    と、受け取ったお金を借金の返済に回し、そのまま今日に至る。のか?(笑)


                    沖縄市住吉の社交街

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                       

                      沖縄市住吉1丁目の社交街跡。入口は閉鎖されています。

                       

                       

                      私はこの社交街について何も知りませんので、この投稿は私の推測。信用してはいけません(^^)

                       

                       

                      沖縄戦が終わった1945年。嘉間良収容所(キャンプ・コザ)による人口増で、越来村は胡差市に昇格しました。初めて沖縄の地名にコザの名前が付いたものの、収容所の縮小により1年も経たないうちに再び越来村に降格してしまいます

                       

                      畑以外には何も無い越来村でしたが、そこからの10年間、嘉手納基地の建設に併せて、村は飛躍的な発展をとげることになります。そして、1956年に再び市政を敷き、コザ市と名付けられたのです。

                       

                       

                      1959年のコザの地図です。

                       

                      琉球政府道の13号線と24号線が交わった場所がコザ十字路。茶色に塗られた区域が市街地で、地図の左上に白人街があった八重島。右上に越来。右下に黒人街があった照屋。

                       

                      コザ十字路を起点に幹線道路に沿って、さらにはスージへと、触手を伸ばすように街が広がりました。

                       

                       

                      コザ十字路に近い住吉にも繁華街が形成され、映画館(コザセントラル劇場)が営業を始めました。この社交街が出来たのは、その頃でしょう。


                      建物の中を覗いてみましょう。

                       

                       

                      中央に廊下があり、両側にホテルの部屋のように店が配置されてました。と思ったら、これは二つの建物の上に屋根を乗せてるようです。一種のアーケードか?

                       

                       

                      戦争で建物が焼け、高い塀だけが残っていた敷地があって、長屋のような建物を建てて飲食店を入れました。今で言うスナックビルのようなもの。

                       

                      組合があるような、つまり住吉社交街と呼べるようなシロモノではなくて、看板に社交街と書いただけの社交街。

                       

                      建物に歴史的な価値があるわけではなく、特筆すべき出来事もないまま60年が経過し、当時は若かったママも客も老いてしまったと。

                       

                      そういうこと?(笑)

                       


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                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
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