ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(3)

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    ハーバービュー通りから丘の道に入りました。

     

    街路樹が植えられ、路面にはミンサーの絣柄が描かれてる、丘の道最厚遇区間。いつ(五)の世(四)までも末永く。

     

     

    まあ、これは丘の道が厚遇されているのではなく、この先に格式高いホテルがあるからですね。はい、到着。

     

     

    ホテル前を抜けると丘の道は壷川から泉崎りうぼうに向かう市道に出ます。一見、突き当たったように見えますが、本来の道筋は左の歩道部分なので、ちゃんと左奥に向かって抜けてます。

     

     

    この辺りはかつての湧田村で、獅子松尾(シーシマーチュー)と呼ばれる松林がありました。高麗出身の陶工張献功(ちょうけんこう)が国場からここに移り、ヤチムンの窯を開きました。

     

     

    さて、丘の道は続きます。

     

     

    突き当たりに小さな森が、見えてきました。あの森が、この先の道筋を追うヒントになりますので、覚えておいて下さい。

     

     

    突き当たると思われた丘の道は、森の左手をすり抜けています。

     

     

    ここは私が好きな道です。城岳一帯は開発が進み昔の面影はありませんが、ここだけは古道を歩いてる実感があります。

     

     

    丘の道は市道に合流し、

     

     

    城岳のガジュマル前に出ます。

     

     

    (続く)


    ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(2)

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      国場から那覇市場までの距離は片道約5キロ。古波蔵と城岳の崖上を通る古道を丘の道と呼ぶことにします。

       

      丘の道は真玉橋の西、国道沿いのパチンコ屋脇から始まり(地図のバルーンの位置)、直線的に北西方向へ向かい、ひめゆり通り(与儀大通り)の中央ツーリスト本社横まで続きます。

       

       

      古い道筋が残ってはいるものの、天秤棒や荷車で野菜を運んでいた頃を偲べるものは何も無く、民家の立派な石垣や大きなガジュマルが残るくらいです。

       

       

      さて、場面を那覇市東町にあった那覇市場に移しましょう。

       

      天秤棒を担いで那覇市場を歩く女性。野菜を運んで市場に着いたところか、野菜を売り終わり、魚や塩などの買物を済ませたところか、天秤棒に荷重がかかっています。

       

       

      那覇市場を出た彼女は泉崎橋を渡り、丘の道を歩いて国場に帰ります(ということにしましょう)。

       

      久茂地川の川筋が変わっているので、泉崎橋があった場所は国道58号線の路上です。泉崎橋を渡った女性は現在の那覇市役所方向に向かいますが、古い道筋は残っていません。

       

      ハーバービュー通り(那覇高校前の通り)まで来て、やっと丘の道が現れます。ハーバービューホテルに向かう一方通行です。

       

       

      ここからひめゆり通りまで、丘の道を歩きます。

       

      (続く)


      ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(1)

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        私が住む那覇市国場は、かつての野菜生産地。大消費地の那覇に近い上に、国場川や漫湖を利用した水上交通が可能で、車や鉄道の無い時代では、他集落に対して優位な立場にありました。

         

        漫湖の水上交通(1)

        漫湖の水上交通(2)

         

        水上交通に用いる舟はサバニですから、野菜を運ぶ様子は東南アジアの水上マーケットをイメージすれば良いでしょう。

         

         

        また、国場は野菜の集積地でもありました。国場川の支流から小さな舟で野菜を国場に運び、大きな舟に積み替える水上ネットワークがあったようです。

         

         

        一方で、肉や魚、塩など、生活に必要な品物を入手するために野菜を売る人達もいて、その人達は陸路で那覇に野菜を運びました。運ぶ方法は頭に乗せたり、天秤棒を担いだり、荷車をひいたり。

         

        今なら、国場から那覇までは平坦な国道を歩けばいいのですが、当時そこは国場川。陸路は古波蔵や城岳の崖上にありました。真玉橋から古波蔵の丘を登り、ピークを越えて下った所が現在のひめゆり通り。そこから再度、城岳の丘を登り、下った所が現在のハーバービュー通り。泉崎橋を渡って、那覇市東町にあった那覇市場に到着しました。


        (続く)


        コザの散歩(6) 越来グスク

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          一つ前の投稿で紹介した1947年の写真を拡大しました。



          コザ十字路の北に越来、西に安慶田、南に照屋の各集落が見えます。コザ十字路付近はハル、もしくは湿地のようで民家が見えません。ハルと安慶田集落との境界を比謝川が南から北へ流れています。



          コザ十字路の北西、越来集落の南に写った長方形の黒い影が越来グスクです。米軍はその城壁を崩し、コザ十字路周辺の地盤強化に利用したのですが、その様子がコザ十字路絵巻に描かれています。ブルドーザーに乗ったマッカーサー。



          つまり、銀天街の地下には越来グスクの城壁がゴロゴロしてるってこと。世界遺産登録クラスの城壁だったはずなのに、グスク跡地にその痕跡は何もありません。

          マッカーサーのやつめ。

          何てことすんだ。と思う一方、そこに市場ができてコザが繁栄したんだから、まあいいか。と思う一方、越来グスクも見たかった(笑)


          越来グスクは即位前の尚泰久(越来王子)の居城でしたので、百十踏揚はここで生まれ育ったはずです。泰久王は1454年に39歳で即位し、踏揚は勝連の阿麻和利に嫁ぎました。そして、阿麻和利の乱が1458年。

          王府軍が勝連グスクに到着する寸前、大城賢勇は踏揚を背負い、首里へ逃げましたが、その様子も絵巻に。



          勝連を制圧した泰久王は、賢勇と踏揚に越来グスクを与えました。

          踏揚の生年が分からないので、適当に数字をあてはめれば、16歳で勝連に嫁ぎ、20歳で越来グスクで帰ってきたということ。そして、1462年に首里でクーデターが起きたため、賢勇と踏揚の(幸せな)生活はわずか4年で終わってしまいます。踏揚24歳。賢勇は踏揚を玉城に逃がした後に自害したと言われています。

          関連投稿:百十踏揚が玉城へ向かった理由(1)

          関連投稿:大城賢勇の墓(1)


          コザの散歩は一旦これでお終い。次は古謝を歩きます。


          コザの散歩(5) 沖縄戦直後のコザ

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            1947年に米軍が撮影した航空写真がありました。

            1945年の沖縄戦集結後、大規模な収容所(キャンプ・コザ)が設置された越来村は、一旦、胡差市(もしくは古謝市)に昇格しましたが、翌年の1946年には収容所の住民が解放され、再び越来村に戻りました。更にその翌年の写真です。

            関連投稿:コザ市誕生、消滅の年表(メモ)



            直線的な軍道が目に付きますね。コザ十字路と赤道交差点。高原交差点が海に近いことに驚きます。泡瀬海中道路は初耳で、楽しみが増えました。米軍泡瀬飛行場の北端が少し写っています。


            1945年4月1日、読谷に上陸した米軍は翌日には泡瀬海岸に到達し、4月3日には伊佐、普天間、荻道、久場を結ぶラインまで南下しています。幸いなことに、コザ周辺で大規模な戦闘は起きなかったということ。米軍は直ちにコザに収容所を設置し、そこに周辺住民を集めました。そして、古謝集落(写真縁取り部分)にも収容所が設置され、併せて米軍の宣撫部隊が駐留しました。

            (宣撫:占領地域などで、政府の方針を知らせるなどして、人心を安んずること)


            その時、米軍はキャンプ・コザをビッグコザ、古謝集落をスモールコザと呼び分けていたのです。さて、コザの由来を知るための私の散歩は、ここで結論に至りました。コザの由来は古謝です。

            コザの由来を、胡屋の聞き違い(あるいは読み違い)とする説と、古謝とする説とがあります。史実を曲げることはできませんが、両論併記のどちらを支持するかは各人の心証によります。またその積み重ねにより、各人の歴史観が形成されます。

            関連投稿:胡屋を読み間違えてコザになったって本当か?

            コザの名を世に知らしめたのは、1970年のコザ暴動事件と言えるでしょう。その現場が主として胡屋十字路付近であったことや、後にコザの中心がコザ十字路から胡屋十字路に移ったことなどにより、胡屋説が受け入れられたのではないでしょうか。それは、付会の説に思えます。

            (続く)

            沖縄1935(4) 古謝集落の美栄泉(ミーガー)

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              沖縄1935のこの写真は、現在の沖縄市字古謝にある美栄泉です。



              右側に立つ人物は、(当時の)古謝集落区長の知念賢榮さん。古謝集落の農業近代化に尽くされた方です。

              そして、美栄泉の今。





              ちょと、忘れ去られた感がありますね。まあ、どこの集落でも役目を終えた井戸は、概ねこんな雰囲気です。

              この日私はたまたま近くを通ったので、とりあえず、美栄泉だけを訪ねてみました。ここを起点に、近々、古謝集落をじっくり歩くつもりです。


              古謝公民館では、8月23日までの期間、沖縄1935の写真展を開催中です。

              地元で写真展を開催することには大きな意味があります。例えば、古謝のサトウキビ畑の男の子。



              この写真を見た女性が「この子は私の父です」と。

              昨年、88歳でお亡くなりになったとのこと。いやぁ、残念です。もう少しだけ長生きされていれば、写真を見れたのに。


              写真展の開催により、地元ならではの情報が掘り起こされ、それぞれの写真の付加価値がどんどん上りそうです。


              コザ市誕生、消滅の年表(メモ)

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                (1666年)越来間切から美里間切が分離する

                摂政羽地朝秀(はねじちょうしゅう)の地方制度改革によるもの。

                関連の投稿 羽地朝秀の改革(1)


                (1908年)越来間切が越来村となる

                島嶼(とうしょう)町村制の施行により間切が廃止された。逆に言えばこの年(明治41年)までの行政単位は間切。


                (1945年)越来村が胡差(こざ)市となる

                沖縄諮詢会が定めた地方行政緊急措置要綱により、キャンプ・コザが胡差市(もしくは古謝市)となり、市長、市議会議員を置いた。

                関連の投稿 教育者 志喜屋孝信さん(1)




                (1946年)胡差市が越来村となる

                キャンプ・コザに収容されていた住民が解放され、胡差市の人口が激減したため。


                (1956年6月)越来村をコザ村と改称する

                (1956年7月)コザ村がコザ市となる

                この年、新たな土地収用を行なった米軍に対する「島ぐるみ闘争」勃発。


                (1970年)コザ暴動発生

                米軍人による交通事故に端を発した、米軍施設、車両への焼き討ち事件。

                関連の投稿 報道カメラマン石川文洋さん(1)


                (1974年)コザ市と美里村が合併し沖縄市となる

                概ね、西半分が旧コザ市、東半分が旧美里村。



                胡屋を読み間違えてコザになったって本当か?

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                  JUGEMテーマ:地域/ローカル


                  コザ市と美里村が合併し沖縄市になったのは1974年4月のことでした。沖縄の地名はそれぞれに味わい深く、良い名前が多いと私は思いますが、この沖縄市だけはちょとねぇ。つまり、沖縄県にあるから沖縄市ってことよね。

                  ナイチで暮らす(例えば)糸満人(チュ)が「ああ、糸満に帰りたい」と思うような、コザの青年会のニーセーターが旗頭を見上げ、(例えば)「園田」の文字を誇りに思うような、そんな感情を沖縄(市)に対して持てるのかなと思います。

                  旧コザ市で生まれた人、つまり43歳以上のコザンチュならば、間違い無く「ああ、コザに帰りたい」と思うでしょう。

                  以前、ベトナムを旅行した時に、メコンツアーの添乗員のオヤジが「おい、ホーチミンなんて呼ぶなよ。サイゴンだぞ、サイゴン。分かったか?。サイゴンだ」みたいなことを言ってましたが、よく似た話ですね。


                  ところで、その誇り高き「コザ」の由来は、米軍が胡屋を読み間違えたってことになってます。

                  これがまた、何でそうなるのか。

                  「たとえそうであったとしても、他に何か考えろよ」と言いたい。

                  GOYAとKOZAを間違えた経緯はこんなことでしょう。古くからの地名「ごや」に漢字を当てて「胡屋」。その胡屋の胡を「こ」と読み直して「こや」。だからKOYA。

                  そして、YとZは筆記体で書くと似ているから、これは間違えても致し方ないと。



                  「お〜い。この話は本当か?」と言いたい。

                  「本当だ」と思う人は、それでよろしいのですが、私には後付けの匂いがプンプンするのよね。誰かが適当に言ったことがウケて、そのまま定説になったのではないかと思ってます。


                  で、この続きはまたいずれ。

                  いずれと言うのは、私は近々、コザ十字路とか旧美里村の古謝集落とかを訪ねて、沖縄1935に繋げたいと考えております。だから、続きはその後で。コザは遠いから(笑)


                  沖縄1935(3) 糸満前端の路地

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                    沖縄1935に載っているこの写真。鱶取り名人、上原亀さんのお宅(現存)の前の路地だそうです。



                    沖縄を訪れた朝日新聞の記者が、糸満の風景を撮ろうとウロウロしてたら、たまたま着物姿の女性が現れたので「ちょっと撮らせて下さい」と言ったら、「どーぞ」と。

                    絶対にそんなはず無いと思うのであります。

                    そして、もう一枚。



                    傘に「ミス」。何度見ても「ミス」。

                    あれですかね。ナイチから記者が来たのでミス糸満を呼んで、スナップを撮らせたんですかね。つ〜か、昭和10年にミス糸満はいたのかな?

                    あるいは、亀さんを取材したら「私の姪はカーギが良いから、撮っていきなさい」と言われたか。

                    そこら辺は考えても分かる気がしないのでほっといて、写真の場所を探しましょう。


                    亀さんは糸満の前端(マエハタ)に住んでいました。

                    現在の前端区の境界がこちら。



                    これだけの範囲の路地をしらみ潰しすることはかなり骨が折れます。そこで、埋め立て地をバッサリとカットします。糸満公設市場の界隈も古いとは言え成立は戦後ですから、ここもカットできます。すると、糸満漁港東岸のラインを真っ直ぐ南に下ろして、そこから東を探せば良いことになります。そこが旧前端で、前端の中の前端です。


                    「前端公民館かそこらの人に、亀さんの家を聞けばすぐわかるじゃない」

                    だから。それは私の「美学」が許さないのよね。写真をよく見て何とか手がかりを探すとかして、目的地にたどり着くまでのプロセスが大切で、かつ楽しいわけよ。

                    ピンポイントでその場所に着いたら楽でいいけど、失うものも大きいってこと。


                    よっし!!



                    見つけました。



                    私は記者の位置に立ちましたが、路上に美女はいません(笑)。

                    沖縄1935の脚注では、石塀は両側とも港川石になってました。左手の石塀は間違いなく琉球石灰岩。ところが右手はコンクリートなので、当時の石塀ではないようです。


                    琉球石灰岩と、



                    コンクリート。



                    違いは一目瞭然です。


                    「で、そこに立って何やのん?」

                    だから、現場に立つことは大切なのよ。沖縄1935のすべての写真を見た私より、それぞれの現場に立った私の方が、理解度は断然上と言えるでしょう。そして、繰り返しになりますが、色々調べながら現場に立つことが大切です。

                    こいつ(私)、上手く見つかったものだから、言うことが偉そうです(笑)


                    私もここに立ちたいと思われた方。メールをいただければ、場所をお知らせします。糸満ロータリーからの道順はひとことで説明できて、超簡単です(^o^)/


                    沖縄1935(2) 山巓毛(サンティンモー)からの眺め

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル


                      糸満の山巓毛に来ました。ここは糸満の重要な拝所であり、ハーレー到来を告げる鉦(かね)を打ち鳴らす場所でもあります。



                      見下ろせば、糸満ロータリー。




                      何故、ここに来たかと言えば、沖縄1935 のこの写真。



                      朝日新聞の記者が山巓毛から撮ったと言うのですから、それは私にとって、山巓毛に来いと言われたも同じです(笑)



                      記者の写真では、スージの先が直ぐに船溜り。今はその場所は埋め立てられ、少し先がハーリー会場の糸満漁港。手前の樹木が当時は無かったり、種々勘案すれば、記者の写真に見られる、スージ左側三軒続きの赤瓦のうち、真ん中の一軒が現存しているようです。


                      次に北西方面。



                      その82年後。



                      わかりませんてば(笑)

                      右手に白銀堂の森が見えてまして、手がかりはそれだけ。

                      記者の写真に見える島が「アナギ」。1958年の写真が糸満市のホームページにありました。



                      干潮時には干潟となり、潮干狩りができたようです。アナギまで歩いていけたんですね。この写真、島の向こう側(沖)から撮ってるでしょ?

                      アナギは、今の写真奥に見えるマンションあたりにあったはず。


                      今も島の一部がありました。おいたわしや。



                      なんと言えばいいのか。言葉がありません。




                      糸満の海岸がこんなにも広い干潟だったとは、今回初めて知りました。干潟という干潟を片っ端から埋め立てて、得られたものは何?、失ったものは何?

                      「沖縄に干潟がある→埋め立てる」と「カエルの前に蝿がとまる→パクっと食べる」の思考ロジックはほぼ同じです。沖縄県は埋め立ての損得勘定が合ってると、胸を張って言えんのか?


                      沖縄1935シリーズ。断続的に続きます。はず(笑)


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